パーティと名の付くものに出て、最後まで楽しかったという記憶がない
「なんで自分はこんなところにいるんだろう?」
パーティの記憶のなかで一番鮮やかなのはこれです。
子供のころから大人になるまで、パーティとは楽しいもの、という強烈な刷り込みの元に育ちました。
パーティを楽しめないやつは暗くてつまらないやつ。
それはパーティを開いたり参加したりする人たちは、きらきらした世界の住人だったから、そこからはじき出されてはいけないのだ、と必死にしがみつこうとしていたんだと思います。
強い憧れとは裏腹に、パーティで楽しんでいるはずの自分はいつも憂鬱でした。
たくさんの人の中で、一人だけぽつんと、違う世界にいたから。
パーティにつきもののゲームが苦手
わたしはめちゃくちゃに負けず嫌いで、ゲームでも負けると何もかも楽しくなくなってしまう体質。
これはもう生まれ持ったもので、努力してどうこうできればどうにかしたいと思って生きてきたけどどうにもならず、もはや近づかないことしか解決策を思いつかない。
ゲームという勝負を楽しめない、という人間はゲームが上達するということもありません。
不幸にもたいていのパーティでは食事のあとにゲームが行われて、わたしはたいていゲームに負けて不機嫌になり、パーティを台無しにする、というパターンが繰り返されました。
アルコール苦手
お酒を飲んで盛り上がる、というのもパーティのだいご味だと思いますが、これまた体質によりわたしはお酒の味が全然わからない。
アルコールすべてが、なんかもわーっとしてつーんとして、ぴりぴりして、なんで皆がこれをあたかも無限のエネルギーの源のごとく飲み続けていられるのか不思議でならない。
酔っ払いたちが理性を飛ばす姿を眺めてうんざりしていました。
たくさん人間がいる空間が苦手
一人なら自分で居場所を選べるけど、たくさん人がいて込み合う空間では居場所をみつけられなくていたたまれなくなる。
本当はみんなでワイワイするのが好きといえる人になりたかったし、ゲームを勝っても負けても楽しめる人になりたかったし、アルコールを飲んでおいしい日本酒がわかる人になりたかった。
パーティが苦手な人間だなんて、認めたくなかった。
けど、いまは思う。
自分は一人が向いてる人間なんだ。
まったく人付き合いがなかったら寂しいけど、友達という概念すらわたしにとっては呪いのような存在だったことに気づきました。
一緒にいても楽しくないのに仲良くしなくちゃいけないという縛りのある「友達」よりも、共通点があって一緒にいて心が落ち着く「他人」との緩やかな関係を、大切にできるだけで十分なんじゃないか?
コロナの自粛期間は、自分の人間関係をみつめなおすきっかけになりました。
結論、好きな人と一緒にいる時間も好きだけど、一人が好き。