先日図書館で借りた辻村深月著「闇祓(やみはら)」を読んだ。
闇を祓う物語
主人公原野澪が通う高校に、不思議な雰囲気の転校生がやってくる。
社交性ゼロの彼が、なぜか主人公をみつめており、
突然「家にいってもいい?」などと聞いてくるので
怖いといいつつ好意をもたれているのかな、と勝手に想像し、仲の良い友達や先輩と盛り上がっているうちに・・・
「闇祓」というタイトルをみて「闇ハラスメント」とは別に、闇を祓う物語であろう、ということが想像できてしまう。
それをわかったうえで、主人公が勝手に想像したり怖がったりするところを、
「たぶん違うんだよ?」と思いながら読み進むのが正しいのかどうか悩む。
次第に姿を現してくる闇ハラ。
物語の中では異形の存在の憑依を感じさせるけど、なにかに取りつかれていなくても、他人に不快感を押し付ける人はリアルにたくさんいる。
ネットのなかにはそれこそ数えきれないくらいの誹謗中傷の言葉が溢れてる。
匿名になると、人は悪鬼のような所業ができるようになる。
現実世界のどこにでもある恐怖
自分が人間関係を選べない場所、たとえば学校とか、職場とか、そういうところで苦手な人間に出会う確率は、ほぼ100%ではなかろうか。
家族や親せきにだって、いるだろう。
苦手な人間と付き合わなくてよい世界を築くことは不可能ではない。
でも強い意志を必要とする。
自慢話を聞いてほしい人とか、自分の正義を押し付けようとする人、
は、まだいいほうだ。
無視する人、侮る人、人格否定する人、なども常識的範囲内の社会に生息している。
言葉に出さなくても、
「あなたじゃ役に立たない」
という態度をとられると
「わたしってだめなやつ」
という闇がわいてくるのは自然な感情ではないだろうか。
少なくともわたしのなかには、そういう闇がある。
しかしこの物語の登場人物たちの、偽善ぶりやマウンティングが異常かといえば、こんなことほんとによくありそう、という程度のことなのだ。
うっとうしいけど断ち切れないしがらみ。
格別の悪意が存在するわけでもないのに、闇に支配されてしまう心。
それはそこらじゅうに落ちて、はびこっている。
むしろ祓って終われるなら簡単
物語には闇を祓ってくれる役割を持つ人たちがいるけれど、術や道具を使って心の闇を祓えるものなら世の中はもっと簡単だ。
パワハラもモラハラもカスハラも、取りついた何者かが悪さをしているせいだったらどんなに楽に解決できることか。
友達だから、父親だから、ほんとはいい人のはずだ、変わってくれるはずだ。
そう思うことがすでに正義の押し付けになっていないか、
正しい側として描かれる人々を見ていて思う。
「こうすることが、正しい人ですよね?」
と提示されることの息苦しさ。
この居心地の悪さは、どっちかというとわたしが闇側の人間だからなのかも・・・