なんとなく気づいてはいたけれど、私は根っこの部分がテイカーだと思う。
本や漫画をよく読んでいたから、ギバーが愛されることは知ってた。
知識として知ってはいたけど、やってることはテイカーだった。
たどれる限りの記憶を引っ張り出すと、火をつけて全部燃やしたいくらいけち臭い行動をしてました。
はさみやのりを貸すことすら渋ってました。
まぁ全然知らない人にノート貸してとか言われるのはちょっと筋が違うかと思うけども、友人にすら何かを提供するという気持ちをこれっぽっちも持ってなかった。
そんな人間と友達でいたいと思いませんよね。
わたしならつきあいません。
自分はもっと大事にされてもいいはずなのに、なんでひどい扱いを受けるんだろうと思ってたけど、自分の行動のせいも大いにあったんだな、と今ならわかります。
自分がしてほしいと思うことを、まず自分がやらなければ始まらない。
わたしは人づきあいがあまり好きじゃないし、大勢でわいわいするのもちっとも楽しいと思わないたちなので、とにかくたくさんの人と関わりたいという願望はない。
昔はそういうのもちょっとあった気がするし、ネット上でつながりを持ちたいと頑張ってた時期もあったけど、結局自分にはそういうのは向いてなかったんだな、と今になってしみじみ思う。
あのころ知り合った人たちとはもう全然付き合いがないのは、わたしがずっとテイカーとしてふるまっていたからだと思う。
いろんなことを周りがやってくれて当然だと思ってたから。
特別な才能もなく、労力もお金も出そうとしないような人間と付き合い続けるメリットはないものね。
テイカーとしてのふるまいを思い出すと、壁に頭をうちつけてうわあああと叫びだしたくなる。
存在を消したくなる。
わたしに古い知り合いがいないのは、そういうことだと思う。
賢くふるまっているつもりで、じつに頭の悪い生き方をしていました。
わざわざ居心地の悪い場所を作って、殻に閉じこもって。
でもそういうことは、そのとき誰かが言ってくれたとしても腹落ちすることなく過ごしていたでしょう。
細かい文字が読みにくいこの年になってようやく、そうだよねそうだよね、挨拶も労力もお金も、さっと少し先に出せると世の中は生きやすくなるんだよね、という真理が頭の中に響いてきました。
だからといって根っこを入れ替えるのはなかなか難しいと思いますが、叫びたくなる思い出を増やさないようにしたいものです。
最近では、とあるレストランでいったん先に注文したスープとサラダを取り消して、両方サラダに変えてもらったことがありました。
その後の店員さんの対応がなんとなく冷たかったのは、変えてもらって当然という態度で頼んだせいだったのかな、という気がしてます。
テイカー気質が出ちゃいましたね。
よく知らないシステムのレストランとか、苦手です。
なにか失敗すると嫌な記憶として残るからで、相手からしたらすぐ忘れられてる程度のことをずっと引きずってたりします。
豊かに生きるためには人に恵まれる必要があるとしたら、わたしには難しいかもしれないな、と感じます。
犬と猫なら大好きなんですけども。




